私がこれまで二十年以上、数えきれないほどの物語を見つめてきた中で、
ここまで評価が静かに、そして深く割れた作品は多くありません。
『葬送のフリーレン』は、
「人生で一番刺さった」と語られる一方で、
「何が面白いのかわからない」「途中からつまらなくなった」とも言われ続けています。
この落差は、単なる好みや感性の違いでは説明がつきません。
むしろ私は、この作品が物語として非常に高度で、危うい選択をしているからこそ、
受け取り方がここまで分かれているのだと感じています。
『葬送のフリーレン』は、感動を押しつけない。
感情を説明しない。
そして、何を感じるべきかを、ほとんど教えてくれません。
感情の解釈そのものを、観る側に委ねる。
この構造は、美しくもあり、同時にとても不親切です。
だからこそ本作は、ある人にとっては「人生の物語」になり、
別の人にとっては「何も起きていない作品」に見えてしまう。
この記事では、
なぜ『葬送のフリーレン』が「本当にすごい」と言われるのか。
そして同時に、なぜ「つまらない」「つまらなくなった」と感じられてしまうのか。
感情論でも擁護でもなく、
物語構造と人間の感情のズレという視点から、
静かに、ひとつずつ紐解いていきます。
そもそも『葬送のフリーレン』の「すごさ」とは何か

正直に言います。
私はこれまで何百本というアニメを観てきましたが、
「この作品、ちょっと発明じゃないか」と思わされた回数は、そう多くありません。
『葬送のフリーレン』が特別なのは、
一般的に“面白いアニメ”とされる要素を、ほとんど武器にしていない点です。
- 息をつかせないスピード感
- 作画で殴ってくる派手なバトル
- 毎話きれいに泣かせる感動のクライマックス
こうした要素は、今のアニメシーンではむしろ王道です。
多くの作品が、視聴者の感情を取りこぼさないために、
意識的に、あるいは無意識に選び続けている手法でもあります。
それでも『葬送のフリーレン』は、そこから一歩引いた。
いや、正確に言うなら――
それらを「使えるのに、使わなかった」作品です。
物語は急がない。
説明もしない。
感情を盛り上げる合図すら、ほとんど出さない。
代わりにこの作品が選んだのは、
時間の経過と、沈黙の積み重ねの中に感情を置くという、
極めて大胆で、そして不親切な構造でした。
たとえば、誰かが死ぬ。
普通なら、そこで涙を誘う演出が入るでしょう。
音楽が鳴り、回想が流れ、感情の行き先が示される。
でも『フリーレン』は、そうしない。
死は、あっけないほど静かに通り過ぎ、
感情は何話も後になってから、ふとした日常の中で立ち上がってくる。
私はこの構造を、
「物語でありながら、人生の時間感覚に限りなく近い」と感じています。
人は、失った瞬間には泣けないことがある。
本当に苦しくなるのは、
何気ない日常で、その人の不在に気づいたときです。
『葬送のフリーレン』がやっているのは、
まさにその“遅れてやってくる感情”を描くこと。
これは、アニメとしては明らかにリスクのある選択です。
わかりやすく面白くはならない。
ハマらない人には、最後まで何も起きていないように見える。
それでも私は、ここにこそ、この作品の「すごさ」があると思っています。
感情を与えない。
答えを教えない。
感じる責任を、観る側に委ねる。
ここまで視聴者を信頼した構造を、
私は、近年のアニメでほとんど見たことがありません。
『葬送のフリーレン』は、
優しい顔をしながら、実はとても厳しい作品です。
でも――だからこそ私は、この作品がたまらなく好きなのです。
「つまらない」と感じる人の感情は間違っていない

まず、はっきりさせておきたいことがあります。
『葬送のフリーレン』を観て、「正直、つまらない」と感じた人の感情は、
まったく間違っていません。
それは理解力の問題でも、感性の優劣でもない。
むしろ私は、この作品を長く追ってきたからこそ、
「そう感じてしまうのは、当然だ」と思っています。
多くの場合、その正体はひとつ。
感情をどこに預ければいいのかわからない状態に、
視聴者が置かれてしまっているだけです。
これは、物語が失敗しているのではなく、
意図的にそう作られている結果でもあります。
感情移入の導線が、あまりにも少ない
フリーレンという主人公は、とても特殊です。
彼女は、泣かない。叫ばない。
そして「私は今、悲しい」とも言わない。
多くの物語では、
キャラクターが感情を言語化することで、
視聴者は「ここで泣けばいい」「ここで怒ればいい」と理解できます。
しかし『フリーレン』は、その道しるべを、ほとんど用意しない。
だから視聴者は、こんな感覚に陥ります。
今、何を感じればいいのかわからない
私はこの感覚を、
この作品に対する「拒否反応」だとは思っていません。
むしろこれは、
感情を受け取る準備が、まだ整っていない状態に近い。
感情が説明されないまま、
静かな時間だけが流れていく。
その不親切さが、「退屈」や「何も起きていない」という印象に変換されてしまう。
でも、ここが重要です。
この“不親切さ”は、
作品の欠点ではなく、明確な設計思想です。
目的が曖昧に見える物語構造
もうひとつ、「つまらない」と感じやすい理由があります。
それは、物語のゴールが、あまりにも見えにくいこと。
多くのファンタジー作品には、
誰の目にもわかる目的があります。
- 魔王を倒す
- 世界を救う
- 最強になる
ところが『葬送のフリーレン』は、
すでに魔王を倒した後から始まります。
物語の目的は、
「死んだ仲間を理解し直すこと」。
言葉にすると、あまりにも地味で、抽象的です。
エンタメとして考えれば、
これはかなり危険な設定です。
ゴールが見えない物語ほど、
人は途中で置いていかれる。
だから、「どこへ向かっているのかわからない」
「何の話をしているのかわからない」
と感じる人が出てくるのは、当然です。
それでも私は、この構造を選んだこと自体が、
この作品の誠実さだと思っています。
なぜなら、
人生の中で本当に大切な問いほど、
最初から目的地が見えていないからです。
失ってから気づくこと。
理解できなかった言葉を、何年も後に思い出すこと。
取り戻せない時間の意味を、後から噛みしめること。
『葬送のフリーレン』は、
そうした現実の感情の在り方を、
驚くほど正直に物語へ持ち込んでいます。
だからこそ、
合わない人には、とことん合わない。
でも、ハマった人には、
人生のどこかに残り続ける作品になる。
私はこの不器用さも、回りくどさも含めて、
どうしようもなく、この作品が好きなのです。
「つまらなくなった」と言われる本当の理由

『葬送のフリーレン』について語られる中で、
私が一番よく目にする言葉があります。
「最初はすごく良かったのに、途中からつまらなくなった」。
けれど私は、この感想を読むたびに、
作品が失速したのではなく、物語のフェーズが変わっただけだと感じています。
むしろ、『フリーレン』はここから先で、
あえて“観る側をふるいにかける”構造へと踏み込んでいきます。
中盤以降に「つまらなくなった」と感じる人が増える理由は、
作画が落ちたからでも、脚本が雑になったからでもありません。
物語が、感情を与える段階から、
感情を読ませる段階へと明確に移行したからです。
これは、かなり大胆で、かなり不親切な選択です。
序盤は「感じさせてくれる」物語だった
序盤の『葬送のフリーレン』には、
誰が観ても理解できる感情装置がありました。
仲間の死。
取り戻せない時間。
「もっと話しておけばよかった」という後悔。
喪失というテーマは、
感情の入口として非常に強力です。
だから視聴者は、
特別な読解をしなくても、
「ここで悲しめばいい」と自然にわかる。
この時点では、
作品はまだ、感情を手渡してくれる側でした。
中盤から、物語は「読ませる側」に回る
ところが中盤以降、
物語の空気は明らかに変わります。
大きな事件は減り、
代わりに増えるのは、
- 意味ありげで、意味を説明しない会話
- 何も起きない移動の時間
- あとから振り返らないと価値がわからない選択
感情は、もう提示されません。
拾いに行くものになります。
ここで、視聴者は二手に分かれる。
「何も起きていない」と感じる人と、
「何も起きていない“ように見える時間”に意味を探し始める人。
この分岐点こそが、
「つまらなくなった」と言われ始める瞬間です。
これは劣化ではなく、覚悟の選択
正直に言います。
この構造は、エンタメとしては相当リスキーです。
テンポは悪く見える。
盛り上がりも弱く感じる。
SNS向きの名シーンも生まれにくい。
それでも『フリーレン』は、
この道を引き返さなかった。
なぜか。
それは、この物語が描こうとしている感情が、
そもそも即効性のあるものではないからです。
人生の中で本当に重たい感情は、
たいてい、後からやってきます。
何年も経ってから、
ふとした瞬間に胸を締めつける後悔。
もう会えないと理解した、その夜の静けさ。
『葬送のフリーレン』は、
その遅れてやってくる感情の質感を、
物語の構造そのもので再現しようとしている。
だから私は思うのです。
「つまらなくなった」と感じたその地点こそが、
この作品が最も誠実で、
最も“らしく”なった瞬間なのだと。
万人に向けた面白さを捨ててでも、
人生の感情に近づこうとした。
その不器用さも、
遠回りも、
私はどうしようもなく、愛してしまうのです。
それでも「すごい」と言われる理由

ここまで読んで、
「なるほど、合わない人がいるのは分かった。
それでも、なぜここまで評価されているのか?」
そう思った人もいるかもしれません。
結論から言います。
『葬送のフリーレン』が高く評価され続けている理由は、
この作品が“人生の後半で出会う感情”を、真正面から描いているからです。
それは、若い頃に憧れる感情ではありません。
達成感でも、成長のカタルシスでもない。
もっと静かで、
もっと言葉にしづらくて、
多くの物語が避けてきた種類の感情です。
- 失ってから、ようやく気づいてしまう大切さ
- 二度と戻らない時間の重み
- 伝えられなかった言葉が、何年も胸に残り続ける感覚
これらは、
経験が浅いうちは「物語として理解できても、実感はできない」感情です。
けれど、人生を重ねるほど、
いつの間にか、この感情を自分の体験として知ってしまう瞬間が訪れる。
だから不思議なことが起きます。
「昔はピンとこなかった」
「正直、退屈だと思っていた」
そんな人ほど、
数年後、ふとしたタイミングで『フリーレン』を思い出し、
もう一度観直して、静かに評価を変えていく。
私はこの現象を、
“後から追いついてくる物語”だと感じています。
『葬送のフリーレン』は、
観た瞬間にすべてを理解させようとしません。
今のあなたに刺さらなければ、
無理に刺さろうともしない。
ただ、
人生のどこかで同じ後悔を抱えたとき、
同じ喪失を経験したとき、
そっと思い出される場所に、物語を置いていく。
それは、エンタメとしてはあまりにも不器用で、
商業的にも効率が悪い。
それでも、この作品はそのやり方を選びました。
私はそこに、
この物語の誠実さと、覚悟を感じています。
派手な言葉で評価されなくてもいい。
流行りの文脈に消費されなくてもいい。
いつか必要になった人の人生に、
ちゃんと辿り着けばいい。
そんな作り方をした作品を、
私は他に、ほとんど知りません。
だから私は、
この作品を「名作だから好き」なのではなく、
好きでい続けてしまう作品だから、名作だと思っているのです。
『葬送のフリーレン』は、
今この瞬間に評価されるための物語ではありません。
あなたの人生が少し進んだ、その先で、
静かに、でも確実に効いてくる。
そんな作品を、
私は心から、愛しています。
結論|フリーレンは誰にでも「すごい」作品ではない

結論として、私はこう思っています。
『葬送のフリーレン』は、
誰にでも無条件で「すごい」と感じさせる作品ではありません。
展開が遅いと感じる人もいる。
盛り上がりが足りないと思う人もいる。
「結局、何の話なのかわからなかった」と首をかしげる人もいる。
そのすべては、間違いではない。
この作品は、そもそもわかりやすく評価されることを目的に作られていないからです。
『フリーレン』が描いているのは、
勝利でも、成長でも、達成でもありません。
描かれているのは、
「終わってしまったあとに、何が残るのか」という問いです。
だからこの物語は、
ある人生の段階にいる人にとっては、
どうしても遠く感じてしまう。
けれど、
別れを後悔したことがある人。
あのとき、もっと話しておけばよかったと、
何年も経ってから胸を締めつけられたことがある人。
時間は戻らないと、
頭ではなく、身体で知ってしまった人にとって、
この物語は、驚くほど静かに、しかし確実に残ります。
私は、
「つまらない」と感じた人を、説得したいわけではありません。
むしろ、
そう感じた自分を否定しないでほしいと思っています。
なぜなら、
物語には“必要になるタイミング”があるからです。
今は何も感じなかったとしても、
それは感性が足りないからでも、
作品の価値がわからないからでもない。
ただ、
今のあなたの人生には、まだ必要な場所に来ていなかっただけです。
そして、この作品の一番すごいところは、
そのことを、決して責めない点にあります。
無理に感動させようとしない。
無理に理解させようともしない。
ただ、物語をそこに置いて、待っている。
私は、この在り方が、たまらなく好きです。
評価されるために存在するのではなく、
いつか必要になった誰かの人生に、そっと追いつくために存在している。
そんな物語を、
私は他に、ほとんど知りません。
『葬送のフリーレン』は、
今この瞬間に刺さらなくてもいい。
でも、
人生が少し進んだ、その先で、
ふとした夜に思い出される。
そしてそのとき、
「ああ、この話は、こういうことだったのか」と、
静かに腑に落ちる。
そんなふうに、
人生と一緒に、少しずつ理解されていく作品を、
私は心から、愛しています。
物語はいつも、
少し遅れて、人生に追いついてくる。


